ふと頭によぎった命題である。
世の中には星の数ほどの人と、その出会いがある。これは男女の関係もそうだし、友達同士だってそうである。「この世に意味のないことなどない」と言った人がいた。では、全ての出会いにも意味はあるのだろうか?
まぁ、話を広げすぎてしまうと結論づけるのが難しいから、ここは男女の出会い、つまりは恋人同士ってところにスポットを当ててみようと思う。
今日び、ただ1人と出会い、恋愛し、結婚する…なんてのはほとんどない気がする。それが良いとか悪いとか言う気はない。沢山の出会いがあれば、それだけ別れも多いということである。良く、人はその別れに際して付き合った期間、というか、出会いそのものに意味を求めることがある。
出会いそのものに意味はない…と言ってしまえばすごく悲しい気分になる。でも、出会いは偶然の産物であり、それは泡ができ、はじけるがごとく気まぐれなものなんだと思う。出会う事そのものには意味はないと思う。
”彼と出会ったことで、私は優しくなれた”
と、まぁ誰かが言ったとして、それは出会いではなく、その彼と付き合っていた期間に得た経験に対して言葉で意味づけをしたのである。もしくは、自分の中にある形無き想いに、言葉という形を与えた、ということである。
では、何故人は言葉を与えたがるのか?
という新しい命題にぶつかる。
言葉というのは万能のように見えて、実は表現できることに限界がある。人の頭脳は無限大の想いを持つことができるが、それを発露させる為には言葉という道具を使う必要があり、故に思っていることを全て相手に伝えることは難しいのである。
逆に言えば、別れ話をする人というのは、無限大の自分の想いを、言葉という型にはめることによって、自分で許容可能な大きさにまで落とし込んでいるのではないのか?
あくまで、俺の考えであるが…人はそうやって言葉という型にはめ込んだ想いだけを持って行き、残りは全て忘れてしまう生き物なんだと思う。だから、ふっと忘れてしまったことを思い出したとき、つまり、言葉にできなかった感情に再会したとき、訳もわからず涙を流したりするのかもしれない。
駄文ですた。