ちょうど今頃、これで最後と体育館を後にした。
夏、1つの転機が訪れた。
きっと他の人からしてみたら頭の悪いことかも
しれない。それでも俺は”コーチ”として横浜
と大阪を行き来する道を選択した。
2週間に1度の頻度で大阪へ戻る生活は、決し
て楽なものではなかったのは間違いない。
でも、楽しかった。
それ以上でもそれ以下でもない。俺にとって、
大阪でバレーを教えること、試合で共に戦う事
は何事にも変えられない大事な事だった。
でも、大事なことは俺がどう思っているかじゃ
ないってことは分かっていた。本来は、毎週末
教えることのできる指導者がいるべきだ。
そして、社会人2年目という現実。今のプロ
ジェクトが佳境に入れば、週末は担保されなく
なることは間違いない。見込みで秋頃。
だから、後任者が見つかった今、俺は自分が考
え得るベストの選択を行った。続投は、俺のエ
ゴでしかない。
自分で選んだ解答なのに、やっぱり悲しかった。
エンドは4月16日。新3年生の引退と時を
同じくして、コーチという肩書きを後進に託す
ことにした。
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