平清盛 - 重衡 - 重詮 - 重澄(始祖) - 重宗(阿波国→美作国へ)
という感じらしく、重詮は下記のホームページに登場し、どうやら記録はかなり信憑性の高いモノらしいということが分かる。
http://maturi.lolipop.jp/maturi/2007/maturi80.html
山内重則とは、京都山城の国、金子城主「平重詮」(安徳帝の侍従。平清盛の子・重衝の子で清盛の孫にあたる)が、源氏の追っ手から逃れるために「中山重則」と変名、安徳帝を守ってきたが、崩御後、山内と称し、この地に留まって御陵のお守りをすることになり、山内神助と改名したという。この平重詮は平重則とも、中山重則とも、山内重則とも、山内神助とも呼ばれ、壇ノ浦後の平家落ちでかなり主導的な立場にあったようだ。伝説では、落ち延びた安徳天皇が若くして崩御するまで仕えたらしい。詳しくは以下のページを参考にしてもらいたい。
http://www.geocities.jp/kyoketu/5729.html
http://daichanzeyo.cocolog-nifty.com/0403/2008/04/post_2653.html
で、その平重詮の息子の一人、重澄が阿州北之荘(剣山麓)に住み北性を名乗るようになった。そして、その次男坊重宗が海を渡って美作の国へ移り、そこで江原氏(後に宇喜多直家の娘婿になる)に仕える。宇喜多家が豊臣家と命運を共にするに至って、北家も没落。その時代の当主は、「蟄居」という扱いになっている。
さて、そんな感じで自分のご先祖様について色々調べてみると、何だか神妙な気分になる。特に最後の御大将平重衡中将はめちゃくちゃカッコイイ、平家物語でもかなり人気がある人物だ。平重詮も、四国にまことしやかに囁かれる平家伝説の中では一種伝説的人物とも言える。
そんなことを考えていると、ご先祖様に恥ずかしくない人間にならねば・・・と、ちょっと身につまされる思いを抱いてしまう。今まで気にしたことが無い人も、1度自分の家のルーツを探ってみるとまた一興ではないかと。