中学編の続きですが・・・
今なお毎日のように通い続けている母校、富田林高校。名前伏せようかと思ったけど、今思ったらGreeで公開してるんだった(笑)ここでのバレーボールライフが、間違いなく自分の人生の転機となりました。
中学時代に一緒にプレイしたYのみ同じ高校に進学しました。一応、それなりにそれなりな進学校だったのですが、部活動や行事ごとは盛んな方で、「富高に行くと頭が悪くなる。」と言われる程でした(笑)
そんな中、Yがバレー部を見に行くというので、自分も見に行くことに。そこで後の
キャプテンや
jackと出会い、意気投合しました。また、今でも一緒に高校でバレーを教えている男バレコーチの7氏なんかとも出会うわけです。
人間関係に恵まれたというか、同期は比較的親しみやすかったですし、先輩も(このときは)優しかったです。今でも付き合いのあるK先輩(
久しぶりにプレイヤー!参照)の勧誘もあり、バレー部に入ることに。でも、やっぱ一番の理由は「Yと一緒にもう一回ちゃんとバレーがやりたかったから。」
高校は中学とは打って変わって自由な部活でした。ただ、先輩は厳しいですし、練習も厳しかったです。特に合宿は毎日筋肉痛との戦いでしたし、夏休みに遊びに行った記憶なんて皆無です。
でも、スゲー楽しかったのを覚えてます。中学時代がかなり辛かったのもあるんだけど、毎日バレー部連中でつるんで、時々けんかして、みんななんだかんだでバレーが好きで。
ポジションはセッターでした。きっかけは「他はへたくそやけど、オーバーだけは他の誰より上手いからセッターやれ。」というYの一言でした。全てをかなぐり捨て、トスを上げることに専念しました。一日100本以上は壁にパスついてましたし、指立てもいっぱいやりました。
やっぱりへたくそはへたくそだったんでしょうが、オープンもセミも速攻も全部あげれるようになりましたし、どんなボールでも2本目は絶対に自分が取りました。中学から考えれば、格段に進歩したと自分でも思います。
でも、本当に自分がバレーに対して本気になったのは、ある事故からでした。
2年生になり、上の代が引退し、2度目の合宿を終え、後1週間で公式試合というある夏の日の練習でした。後輩と空中で接触し、後輩の足の上に着地した瞬間、足に激痛が走りました。結構重度の捻挫で、その日から3日は松葉杖なしでは歩けませんでした。
次の日、医者に行きました。当然、ドクターストップを掛けられ、1週間後の試合は絶望的でした。医者からの帰り、学校に立ち寄りました。その日はi高校との練習試合で、セッターはライトポジションのjackがやっていました。
「次の試合の出場は見送ろう。セッターはjackがなんとかやってくれている。」
俺は本当は出たいとは言い出せずに「はい。」と答えるのが精一杯でした。自分の中でも諦め掛けていた時、試合を終えたYがこう言いました。
「次の試合は絶対に出ろ。お前がおらな勝たれへん。」
その日家に帰ってから、俺ははじめて悔しさのあまり泣いてしまいました。Yの言葉が頭の中で何度も繰り返されます。誰かに必要とされている、それなのに自分はその期待に応えることが出来ないかもしれない。ひとしきり泣いた後、自分の中には「絶対に試合に出よう」という思いだけが残っていました。
試合までの毎日、自宅でアイシングをし、ボールを一個借りて、ずっと座りながら直上トスをしていました。ギブスは取れましたが、試合当日まで痛みも腫れも残りました。試合前日、医者からは鎮痛剤を飲み、ガチガチにテーピングで固めれば出場しても良いが、きっと何もできないだろうと言われました。
試合当日、痛み止めを飲み、テーピングでガチガチに足を固めて試合に臨みました。Yが俺に「でれんねんな?」と聞くと、「勿論。」と俺は答えました。渋る顧問に無理を言って試合に出して貰いました。
試合が始まると、不思議と痛みは消えました。高くも跳べないし、速くも走れないけど、それをチームメートがしっかりカバーしてくれました。結果、予選を突破し、本戦への出場権を獲得することができました。
本戦では、ベスト4まで残るチームと壮絶な叩き合いを演じ、敗北を喫しました。
その後、紆余曲折もありましたが、大阪府の1部リーグへと昇格を果たすこともできましたし、うちのチームはなかなかに強かったんだと思います。
もしもあの時、Yがあの言葉を掛けてくれなかったら、俺は今とは全然違う人生を歩んでいたと思います。あの時以来、俺は”本気”になりましたし、セッターとして、バレーボーラーとしてそこから格段に成長していけたと思います。引退の時は本気で泣きました。「もっとこのチームでバレーがやりたかった」と。
今こうしてコーチをやっているのも、あの時の経験があったからだと思います。
俺たちが果たせなかった”大阪という枠から出る”夢を、あの子達はかなえてくれるかもしれません。Yの一言が無ければ違う人生を歩んでいたかもしれませんが、俺にとっては、この人生が間違いなく最高だと言い切れます。